以前心療内科のある病院で勤めていた頃、患者さんから「怒り」の感情がわからないとか湧いてこないという話を聞きました。
その当時、そのことの意味を理解することができませんでした。
私自身は、腹が立ったり、頭に来ることがあれば「怒る」という感情を認識できるからです。
なのに、「怒ることがわからない」というだから、とても不思議に思っていました。
このような人は、「怒る」という感情の代わりに「悲しい」と感じるようです。
ですが、深層心理では「怒り」を強く感じているのは、身体を通して感じられました。
なので「怒り」という感情がまったく無くした訳ではないようです。
最近、私自身にある気づきがありました。
それは「感情は身体で感じる」ものだと。
痛みや不調に苛まれている人が身体の感覚が弱くなっているように、心を病んでいる人も身体の感覚が弱くなっているから感情による身体感覚の変化に気が付きにくくなっているのだと考えられます。
ただ、五感は、むしろ普通の人より強いところもあります。
おそらく、「怒り」など感情に対する身体の感覚(体性感覚)が弱くなっているのかもしれません。
社会生活をおくる上で「怒り」という感情はマイナスなことは間違えありません。
そして、我々は「怒ってはいけない」と教育されたところもあります。
しかし、「怒り」は本能的なものなので、無くすことなどできません。
むしろ動物的に言えば、「怒り」は自己防衛のためにとても必要なものだから。
なので、決して消し去ることなどできないのです。
しかし、人間の脳は高度に発達しているがゆえにバグ(誤作動)を起こすことがあります。
これが変性意識状態(催眠)です。
変性意識状態(催眠)下では、体性感覚が弱くなると言われています。
それによって、本来不可能なはずの「怒り」という感情を感じないようにすることを、変性意識状態(催眠)に入ることによって体性感覚を弱くして「怒り」の感情を感じないようにプログラムが書き換わってしまったと考えられます。
前回の投稿で、痛みや不調を抱える人は身体の感覚(体性感覚)が弱くなっていると書きました。
怒りの感情を感じない人と痛みや不調を抱えている人の共通点は、意識が身体に向いていないことです。
痛みや不調を抱える人は、痛みや不調といった身体の「症状」に意識が囚われ、怒りを覚えない人は、封じ込めたい、やり直したい、満たしたい「過去」の経験に意識が囚われている。
そうなると、身体に意識が向かなくなってしまいます。
本当は、「過去」や「症状」に囚われない方が好転するのですが、そのような人に「痛みや不調に囚われないように」とか「過去ではなく、希望ある未来に目を向けよう」と言っても聞き入れられないと思います。
なぜ、聞き入れられないのか?
続きは次回の投稿で書きたいと思います。