人の意識には、出力系と入力系の2種類あります。
入力系の意識は、仏教などでいう五識とか五感などのことです。
これらは、感覚神経系の情報で、五感で感知した情報を脊髄を経由して脳に送る神経系の働きです。
五感には、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・平衡覚の脳神経系の特殊感覚と体性感覚(触圧覚・痛覚・温覚、深部感覚(筋紡錘・腱紡錘)などがあり、これらを認識するのが感覚の意識です。
感覚の意識は、脱力することによって高めることができ、体の異なる数箇所を同時に意識することもできるのが特徴です。
それに対して出力系意識は、運動神経系の意識で脳から脊髄にある運動神経を経由して筋肉に伝えて体を動かす時に生じる意識です。
人が動作を行う際、動作の手順などを意識することはなく、それを行う目的物や目的の場所に意識が向けられます。
はじめて行う動作では、動作の手順を覚える必要があり体に意識がありますが、動作を覚えてしまえば目的とする所に意識を向けることが必要となります。
そのようにしなければ、円滑な動作を行うことができないからです。
そして、運動神経系の意識の特徴は、目的とする所に意識を集中させることです。
意識を一か所に集中させることによって、目的に向かって体のパーツが連動して動かせるように脳が自動処理できるようになっています。
例えば、魚を食べようとする時、魚を食べることだけに意識を集中しています。
脳の中には、箸の使い方や箸で掴んだものを口に運ぶ動作、魚の身の取り方など、それらの動作を行う時の指の使い方、腕の使い方、体幹部の使い方、体のバランスと取り方などの動作を「魚を食べる一連の動作」として記憶しています。
なので、魚を食べる時に、~筋を使ってとか、肩甲骨をこう使ってとか、などの動作を意識しませんし、意識しなくても食べることができるのは、そのためです。
逆に、そのような時に、体の動きを意識していたら、うまく食べることができなくなります。
このことから、出力系意識では目的に意識を集中した方が行いやすくなります。
ですが、これら入力系の意識と出力系の意識は混同されてしまいがちです。
そのことが、技術の伝達を妨げている大きな要因であることは、意外に知られていません。
それは、なぜなのか?
入力系(感覚)意識と出力系(行動)意識
入力系の意識と出力系の意識は混同されてしまいがちです。
それはなぜなのでしょうか?
なぜならば、洗練された動作というのは、出力系の目的意識を持ちながら入力系の感覚意識を同時に意識することが出来るからです。
習い事などで先生の言うことが生徒に伝わらないのが、そのケースです。
なぜ、このようなことになるのかと言いますと、先生の持つ目的意識と感覚意識が混合された意識(感覚)を生徒にそのまま伝えようとするからです。
例えば、書を教える先生が動作を教える時に「筆を肩甲骨から動かすようにしなさい」と伝えるとします。
ですが、生徒は肩甲骨から筆を動かそうとしても、うまく書くことができません。
なぜかと言いますと、先生の感覚意識が生徒に理解できないからです。
その先生は、書を書く時に、書を書くことに集中しながら肩甲骨の動きを感じるぐらい洗練された脱力動作を行うことができるのだと思います。
なので、自分の持つコツを生徒に伝えたいという気持ちが強いのだと思います。
ですが、その生徒には書を書く時に肩甲骨の動きを感じる意識などありません。
人は認識していないことを伝えられても、それを理解することができないものです。
ですので、教える側は習う側が認識できるように伝えられるようにしなければいけません。
動作を行う時は、目的に意識を集中させたほうが体がスムーズに動かすことができるので、目的を上手に達成することができます。
その先生は生徒に書を書くことに集中するように教えるべきだったのです。
このようなケースは、習い事や仕事の指導、コーチングなどで多くみられます。
人に動作を伝えるためには、教える手順を段階ごとに変えていく必要があります。
例えば、書だったら、
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はじめに筆の持ち方や腕の使い方
-
次に書の書き方
といった具合に。
なぜならば、出力系の意識は集中しなければうまく機能しないからです。
初心のうちは、動作を覚えることに(出力)意識が使われます。
ある程度動作を覚えたら目的の物を「どのように実行するか」ということに出力意識が使われます。
その過程を踏んで、脳にプログラムがインプットさせます。
さらに上達して動作に無駄がなくなってくると、動作の感覚意識も同時に意識できるようになります。
ですが、その感覚意識は人それぞれ異なります。
教える側は、教わる側の認識レベルに応じて教え方を変えることが必要です。
ですが、そのような認識を持って教えるコーチや先生は少ないのが現実です。
教わる側は、そのことを認識することが必要だと思うのです。
人に意図を伝えるということ
人に教えたり、人から教えてもらったりすることがあると思います。
教えたり教わったりすることの意図がしっかりと伝わるかどうかが重要だと思いますが、はたして正確に意図が伝わっているのでしょうか?
意図を伝える、意図をくみ取るという作業のむずかしさは、人に教えることのある方なら経験されていると思います。
また、先生の意図が理解できなくて苦労なさった経験がある方もいるかと思います。
この文章であっても、その意図が正確に伝わっているとも限りません。
なぜ、正確に伝えることができないのでしょう?
それは、人によって物事の捉え方が異なるからです。
例えば、同じ文章でもあっても、人によって捉え方が違います。
同じ日本語を操っている日本人同士であってもそうなのですから、そのように意図が正確に伝えられるとは限りません。
まして、感覚を伝えることは不可能に近いように思えます。
ただ、人の意図は言葉だけで伝わるものではありません。
言葉以外の情報も発信されており、言葉以外の情報も踏まえて人の意図だとすれば、言葉だけが、その人の意図という訳ではなさそうです。
特に日本人は、感覚的な意図を察するという文化でもあります。
なので、言葉以外の情報というのが大きなウエイトを占めます。
けれど、感覚を伝えることは困難です。
なので、感覚を言葉に翻訳して伝えようとするのです。
しかし、ここで問題が起こります。
この問題に気づかなければ、意図を伝えることができません。
同時に、意図をくみ取ることもできません。
その問題とは?
教えてもらうという場面において、教えてもらう側は今まで経験したことがありません。
なので、教わった情報をそのまま受け取ることができないのです。
なぜならば、教えてもらおうとする人には、そのことを理解するだけの経験がないからです。
人は、経験した情報をもとに物事をとらえます。
なので、経験していないことは、いくら言葉を工夫して伝えようとしても認識できません。
教える側が、そのことを理解していなければ、意図をうまく伝えることができないのです。
教わる側にとっては習う事柄は未知のものなので、情報を受信しにくい環境にあります。
そのことを、教える側が理解していなければ、意図が伝わらないまま一方通行になります。
教える側は、教わる側が消化しやすいように工夫して伝えることができると、意志の疎通がうまくいきやすくなります。
ですので、教える側は、その物事の「原理原則」が伝わるように工夫する必要があると思うのです。
人の意図をくみ取るということ
さまざまなセミナーに行って学ぶ人がいますが、高額なセミナーに行って習ったとしても習っただけでは意味がありません。
講師が教える方法が、そのまま自分に使える訳ではないからです。
人から教えてもらうおうとする時、教わったことを自分の言葉に翻訳しなければ意図をくみ取ることができません。
ですが、そのような作業は、とても困難です。
たいていの場合、教えてもらったことよりも、自分で開拓した方が身になります。
ですが、物事を一から構築しようとすれば莫大に時間と労力が必要となります。
お金を出して教えてもらうことのメリットは、時間と労力を短縮できるということです。
しかし、「人は自身で経験したことを元に物事をとらえる」ということを認識していなければ、そのメリットを生かせません。
いくら教わったことをそのまま実践しようとしても、自分流に翻訳する作業を行わなければ、その意図をくみ取ることなどできないのです。
ですので、教わったことを自分の物にするためには自分流にアレンジする必要があります。
その作業を行わなければ、教わったことを自分のものにはできません。
特に、大人数を教える教室などでは、一人一人の特性にあったようには教えられません。
なので、料金が安い分、教わる側が時間と労力を費やす必要があります。
基本的に教えたことが、そのまま人に伝わることはありません。
なぜならば、人それぞれ、積み重ねた経験が異なるからです。
人に伝える側は、そのことを認識する必要があると思います。
ですが、そのことを自覚している先生やコーチは少ないよう感じます。
そして、教える側には、「自分と同じ方法でやってもらいたい」という心理が働きます。
コーチや先生と呼ばれる多くの人がそうだと思うので、何かを学ぼうとする時には、そのことを前提にしていた方が良いのかもしれません。
そのためには教える側の意図を自分流に翻訳する必要がありますが、うまく翻訳できないのが現実です。
人それぞれ感覚が違うので、教える側と教わる側とで同じ感覚にすることなど不可能です。
なので、教えられたことを鵜呑みにしてはいけません。
受ける側は発信された情報を受信できるように翻訳する必要があります。
教えられたことを、咀嚼して消化・吸収しやすい形に変えないと自分の身にはならないのです。
そのためには、教えてもらう物事の根本にある「原理原則」を掴めるかどうかにかかっています。
そうすれば、学んだことを「自分流にアレンジして再構築する」ことも可能になり、自分自身の身になっていくと思うのです。