よく武術の触れ込みに、
- 力はいらない
とか
- 誰でもできる
とか言い、
- 護身術で使える
と宣伝しているところもありますが、真に受けてはいけません。
武術の技を護身術に!という考えはとても危険です。
武術の技は、護身術には適さないからです。
確かに、武術の技の中には力を必要としない、比較的容易な技があります。
あと、掴まれたりした時を想定した技もありますので、護身術に使えるように勘違いされそうです。
ですが、武術の本質は護身術ではありません。
そのことを踏まえなければ、自ら危険を引き寄せてしまう恐れがあります。
武術が誕生した背景にあるもの
武術の技は、華麗でかっこいいよく、習えば「かっこよく強漢を倒せる」と勘違いしても仕方ないことかもしれません。
武術の技が華麗でかっこいいのは、武術の誕生と関係があります。
武術(特に日本)の流派の誕生した時期を調べると、戦乱が終わった後の平和になった時に多く誕生していることが特徴です。
それって、不思議に思いませんか?
平和になったら武術は不要になりそうですが、なぜ、そんな時代に武術の流派が増えたのか?
それには、事情があるのでは?と考えました。
これは、私の推論です。
戦乱が終わり平和な世の中になったから、自身の武技を戦場で活用できなくなります。
そうなると就職先も少なくなります。
上手く士官できた人はいいのでしょうが、そうでない人もいたでしょう。
もしかしたら、武技よりも学問に長けていた人が重宝がられたかもしれません。
中には、優れた武技を殿様に披露することで、士官することに成功した人もいたかもしれません。
もし、殿様に気にいられれば、剣術指南役として取り入ってもらえます。
あるいは、道場を開いて、門弟を集めたかもしれません。
それらのために、自身の武技を披露して生計を立てる必要があった人もいたと考えます。
自身の生活のために武技を売る。
それが、武術の流派の起こりであり、その武術の流派独特の型なのではと。
そのように考えれば、武術の技は実戦を想定したデモンストレーションだったことになります。
武術の流派を興した人は、実戦を経験した猛者だったと思うので強くて当たり前です。
ですが、実際に使っていた技とデモンストレーションで行う技とは区別していたと考えます。
ある雑誌記者が高名な武術家から聞いた話です。
その武術家は
「実戦で使っていた技は演武でも使わないし、稽古で教えない」
と言っていたそうです。
一つは、危険ということもあります。
ですが、見た目が地味な技を行っても華がありません。
演武には、人を惹きつける華がなければなければなりません。
そうしなければ、門弟を集めて、会費を取ることができないからです。
このように考えると、華のある魅力的な技を作り披露することで集客をはかっていたと考えた方が自然です。
創始者になるぐらい強い人であれば、門弟相手でしたら、考え出した華麗な技でも、かっこよくかけることなど容易だったと思います。
さらに、創始者と弟子との間では、自由組手のようなことも行なっていたと思いますので、初期の頃の高弟には強い人もいたりします。
ですが、時代が降るとともに危険を排除するために自由組手がなくなり、創始者が残した型だけを行う約束組手(想定練習)だけが残ったのでしょう。
武術系の優位性の是非
もし、武術の技に理があるとするとすれば、
- 武器を持った
相手を想定していることでしょう。
武術の創始者は、このような状況で戦い、生き残ってきたからです。
なので、武器に対応する動きのエッセンスは型の中に残っていても不思議ではありません。
それに対して、格闘技の技術では武器への対応ができません。
例えば、格闘技では有効な寝技やハイキックは、武器を持った相手にはデメリットでしかありません。
まず、寝技に持ち込むタックルは、背中がガラ空きになり武器で刺される危険があります。
また、キックやパンチのような、体を捻って放つ打撃(特にハイキック)を行おうとすると足が止まってしまい、動けなくなります。
その時に、刺されてしまう恐れがあります。
そうならないために行われているのが、武術の型にあるような同じ側の手足を前に出す構えからの動きです。
このように構えると刺される面積が狭くなり、切られにくくなります。
この構えから、動きながら打撃を加えたり、関節を極めたり、投げたりする必要があります。
理論上、それらを可能とするのが武術の技であり「居着かない」体捌きです。
それが、同側の手足を出して体ごとぶつかっていくような武術独特の身体の使い方です。
武術の技の多くは、体当たりの要領で行う技や予備動作のない動作を必要としているのは、武器を使い、当てることを重要視しているからでしょう。
武器は素手よりも重いので、腰を捻り手足を加速させるスポーツ的な動きよりも体当たりの要領で当てる動作の方が適しています。
そして、武器(特に刃物)は素手と違い、当てるだけで大きなダメージを与えることができます。
逆に、自分が相手の刃物に触れてしまえば致命傷を負うことになります。
このように、攻撃に当たらないことが前提となるため、武術では予備動作「居着く」ことを忌み嫌うのです。【関連記事】武術が予備動作を忌み嫌う訳
ただ、そのような動きができたのも、実戦の経験を積んだ創始者と、創始者の元で修行した高弟ぐらいでしょう。
もし、あなたが武術を習っていたとして
- 武器を前にして
気負いなく、足がすくまずに動くことができるでしょうか?
武術を嗜んでいるからできるわけではありません。
仮に練習では、居着かない動作を行えたとしても、実際の現場で練習と同じことができるのか?
と問われたら、どうでしょう?
そして、武器を相手にするということは、それぞれの間合いが異なります。
このような状況こそ、間合いの把握がとても重要になります。
間合いの把握は、型稽古で身につく訳がありません。
間合いの把握する練習できない武術で、武器を持った相手に対応などできるのでしょうか?
どんな優れた技を持っていても、間合いを把握することができなければ、意味がありません。
このように考えると、武術を習うだけでは武術の利点と言われる
- 武器を持った相手
の対応についても、大きな疑問が残ります。
護身術が素人に使えないわけ
武術の技には、相対する時に生じる「間合い」の処理の問題が欠落しています。
創始者にとっては「間合い」の処理なんて当然のことだったと思いますので、このことを書き残したり、弟子に伝えたりすることはなかったのでしょう。
そして、平和な世の中では、実戦よりも、見た目重視にした方が受けが良いに決まっています。
多くの実戦を経験した創始者にとって、門弟に華麗な技をかけることなど容易なことです。
しかし、時代が降るとともに間合いの概念が欠落した型稽古が主体になります。
武術を嗜んでいる人ですら間合いの問題を解決しているのか疑問であるのに、素人に護身術として教えることは危険なことです。
実際の危機的状況では、相手がどのような行動を取るか不明です。
- どこを襲うのか?
- どのタイミングで襲うのか?
わからない状態で技をかけることなんて不可能です。
- こう掴まれたらこの技をかける
とか
- 殴りかかってきたらこの技をかける
などと言って、その以外の攻撃を仕掛ける恐れもあります。
襲おうとする相手に対して、いきなり殴ったり、掴んだりすると考えるのは都合の良い考えです。
これが、武術の技が護身術に使えない理由です。
なので、安易に護身術なんて教えようとするのは無責任だと思います。
武術の技に憧れる人に対しての集客であれば問題を問う必要もありません。
ですが、護身術で!と本当に考えている人に対する集客であれば、それは問題です。
それに、人は習ったことを実践してみたいという欲が芽生えます。
もし、護身術なんて習おうものなら、無意識のうちにそのような場所を求めてしまい、そのようなことを引き寄せてしまいかねません。
さらに、下手に技を知っていると立ち向かおうとしてしまいます。
ですが、間合いを知らない素人が下手に立ち向かっても簡単にやられてしまうでしょう。
それよりも、護身のことなんて考えていない方が、身に危険を晒すことが起こらないものです。
仮に運悪く、そのようなことに遭遇したとしても、護身術なんて知らない方が立ち向かおうとせずに迷わず逃げようとします。
逃げることこそが、護身の基本です。
そして何よりの護身は、日頃から心を平安にすることです。
心を平安にしていれば、戦いを引き寄せません。
そして、危険な場所に近づくと本能的に近づかないようになります。
- 君子危うきに近寄らず
危険を察知して、危険なところに近づず、争いを起こさないように心得ることが、何よりの護身術だと思うのです。