前回の記事「呼吸法事始め」で書いた通り、脱力について知ったのも藤平光一氏の著「氣の威力」空でした。
今回は「体の力を抜くことについて」はじめて知ったことを思い出しながら書いていきたいと思います。
「体の力を抜く」その方がパフォーマンスが上がるというのは周知に事実となっているが、「氣の威力」をはじめて読んだ当時は、とても斬新だった。
それまでは、力をこめないと力が出ないと思っていたからだ。
その当時は20歳と若く力が漲っていた頃、そう思うのはなおさらだ。
「氣の威力」には、気のテストというものがあり、その中に「折れない腕」というものがあった。
折れない腕については、以前の記事にも書いているので参考までに。
【参考記事】折れない腕
内容は、「力を抜いて肘を伸ばす」か「気が出ている」とイメージしながら腕を伸ばすだけで腕を曲げられないという。
普通に考えれば、相手に力をこめられるとすぐに曲げられてしまうものだ。
だが、その通りに実践すれば腕を曲げられることはない。
友人に頼んで、私の腕を曲げてもらっても誰一人として曲げることはできなかった。
あと、心のテストになるのか?心身統一のテストになるのか?忘れてしまったが、「持ち上がらない体」というものもあった。
持ち上がらない体についても、以前の記事に書いているので参考までに。
【参考記事】持ち上がらない体
著者は、プロレスラーのような大男に自分を持ち上げさせようして持ち上がらないことを実践してみせた。
これは、「体の力を抜く」か「体の重みを最下部に置く」ことでできるようになると書かれている。
これも、友人に頼んで持ち上げてもらった。
だが、書いてある通り誰も持ち上げることはできなかった。
今であれば、身体の構造、意識操作などの観点から説明ができ、かつ誰にでもできるように指導することなど造作でもないが、その当時は不思議でならなかった。
これらのパフォーマンスよりも私自身が実感したことは、高校時代行っていたテニスのプレーであった。
その当時、大学生となっておりほとんどテニスをしていなかった。
稀に、友人とテニスをすることがあったが。
そのくらい行っていなかった。
それまでは、ブランクのせいもあり、いきなり行うと力みが強く、以前のように上手くボールを打つことができなかった。
それが、「体の力を抜く」ということを覚えてからは、いきなりテニスしても高校時代のように、むしろ高校の頃よりも球のキレが良くなっているように感じた。
この時に、体の力を抜くことの大切さを実感したのだ。
それ以降は、
- 歩く
- 立つ
- 座る
- ドアを開ける
- 戸の開け閉め
- 箸を使う
- 茶碗を持つ
などの何気ない日常動作でも「体の力を抜く」ように行うように心がけるようになった。
これが、脱力トレーニングの礎になったということは過言ではない。
【参考ページ】脱力トレーニングとは
現在では、脱力ばかりではダメであり「力を入れる」ことも大切だという認識です。
ですが、力を入れなければ力が出ないという思い込みが強かった当時の自分にとって「力を抜く」ことの意義を知ったことは、とても衝撃でした。
現在、脱力トレーニングを銘打っているのも、この時のことが強く刻み込まれているからだと思っております。