脱力トレーニングは身体の調整法であると同時に、身体の機能を高めるための能力開発法でもあります。
ですが、変性意識(催眠)を利用した能力開発を行いません。
なぜならば、精神疾患(統合失調症)や自律神経失調などに陥る危険性が強いからです。
能力開発を目指すワークショップの多くが変性意識を利用しているのか?
それは、変性意識状態に入ると無意識(潜在意識)の領域の能力が引き出されると言われているからです。
普段、意識(顕在意識)が邪魔をすることによって潜在意識にある能力が引き出すことができないと言われています。
意図的に催眠に入ることで潜在意識にアプローチすることによって眠っている潜在能力が引き出されやすくなります。
そうすると、普通の人ではできないような超常的な能力を発揮できるようになると言われています。
もしかしたら宗教の修行の一環として行われてきた伝統的な瞑想法や呼吸法なども、変性意識状態に入ることを目的しているように考えられます。
このような修行を行うことで、超常的能力を手に入れた人もいるそうです。
変性意識状態に入る能力開発法のルーツは宗教の修行法にあるのでしょう。
ですが、その反面、禅病や偏差、クンダリーニ症候群など現代医学的に言えば、統合失調症や自律神経失調症を患う人もいたとのことです。
なので、瞑想や呼吸法などは経験のある指導者のもとで行うように言われています。
それでも決して安全な訳ではなく、ひどいケースでは廃人になる人もいたとも言われています。
なぜ、このようなリスクを犯してまで変性意識状態に入ろうとするのか?
おそらく、「天と地とのつながりをもつため」なのかもしれませえん。
変性意識の中から天と地と自身をつなぐものを見出すために危険を犯して変性意識状態に入る。
そうした中で、天と地と自身と一体感を得られる境地を宗教では悟りを開くとか覚醒とか言われるのでしょうか?
悟りや覚醒は特別なものと考えられ、非日常的な変性意識の中に悟りや覚醒があると考えたのかもしれません。
なので、 変性意識に入り、悟りの境地を探し当てるための修行をしたのでしょう。
別な解釈で言えば、変性意識状態とは「我を忘れた」状態で、自身の身体感覚が麻痺することでもあります。
もしかしたら、宗教の修行とは意図的に変性意識の中に入り「我を忘れる」ことで、変性意識を否定して「我を見出す」ための試みなのかもしれません。
ですが、それは、宗教という特定の目的の元で行われてきたことであり、現実的な方法ではないと考えてられます。
自身と天地とのつながりは特殊な感覚ではなく、日常的な意識(顕在意識)によって感じることができるものです。
なので、危険を犯してまで変性意識状態に入る必要などないのです。
なぜかと言えば、天地とつながっている状態が「当たり前」だからです。
天地とつながっているから我々は生きていけるのですから。
そして、自身の身体そのものが、天と地(自然)より得られた産物なのですから。
また、「我を忘れる」ことは、天地とのつながりを忘れることでもあります。
我を感じる(身体感覚)状態こそが、天地のつながりを感じることでもあるのです。
当たり前の状態に感覚が向けられることが「気づき」だと考えます。
これは、日常的な意識(顕在意識)の領域を広げることで、脳の機能が高められ、心身の機能が高められることで得られるものです。
ですが、人は日常生活を生きていると自身の身体の外のことに意識が奪われてしまい、「我を忘れて」しまいます。
我を忘れると心が対象となるものに動くので、身体の感覚意識が消失してしまいます。
人の行う行動のすべては、必ず、人の身体を介して行われます。
なので、身体の感覚意識が消失してしまったら、対象とするものと自分の身体のとの関係性が築けないため自分の能力をフルにできなくなります。
そうなってしまうと、顕在意識の領域が狭くなり脳の機能が低下してしまい、ミスを犯してしまいやすくなります。
そこで大田式調整動作では、身体感覚を取り戻して「我を感じる」ことが必要だと考えています。
このことを実行するために「身体のバランスを整えること」です。
その理由は、身体のバランスを整えることで骨で体を支えられるようになり、筋肉に余計な力がかからなくなるからです。
このことで、
- 筋肉をコントロールする脳の出力が少なくなり
- 感覚情報を入力する余裕が生まれ
- 脳の情報処理能力が格段に高まり
- 普段は潜在意識の内にある能力に気づく(顕在意識の領域が広くなる)
ようになります。
既存にある能力開発が「潜在意識を引き出す」ことだとすれば、
脱力トレーニングは「顕在意識の領域を広げる」ことです。
このことで、身体や精神に負担をかけることなく潜在能力を活用できるようになります。