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心は言葉で表すことができるのか?

 人は心理的なものを言葉で表現しようとしますが、実際には言葉だけが心理ではありません。

 

人の心は、行動(態度や仕草)、体型、表情に現れ、また、部屋や身だしなみといった自身の体の外にも反映されます。

 

ただ、部屋の状態や身だしなみも自身の行動による結果であるので身体を介して反映された心だとも言えます。

 

そして、言葉もその例外ではありません。

 

我々は、当たり前のように言葉を使っていますが、言葉について深く考えることがありますか?

 

言葉は、心の内側の声のように思われるかもしれませんが、自身の体の外に働きかけるものであり、自分以外の人に自分の意思を伝えるコミュニケーションの手段であり行動です。

 

話すという行為は口を用いて空気を振動させて音(声)を作り、その振動を相手に伝える行動です。

 

そして、書くという行為は、手を使ってペンや鉛筆を使い文字を書く行動です。

 

言葉があるおかげで自分の意思を伝えられることができるのですが、よくよく考えると、なぜ意思を伝えることができるのでしょう?

 

不思議に思いませんか。

 

そこで、私は、言葉とは、主に視覚的イメージを共有する手段だと考えました。

 

例えば、果物の「りんご」と聞けば、すぐにイメージできると思います。

 

それは、赤くてふさの付いていて丸い堅めの食べ物という視覚的イメージを「りんご」という言葉で定義し、この視覚的イメージを共通認識することで、人と人とのコミュニケーションを円滑にはかることができるのです。

 

もし、言葉というものが作り出されなければ、文明も栄えず、人類はここまで発展できなかったでしょう。

 

ですが、この言葉も国によって大きく異なり、「りんご」という言葉も異国の人に言っても通じません。

 

なぜなのでしょうか?

 

それは、異国の人にとって「りんご」は共通認識ではないからです。

 

また、人は、言葉を使って心を表現しようとします。

 

ですが、それは言葉の性質上、苦手な分野ではないでしょうか?

 

なぜかと言いますと、人の心は、目に見えるものではないからです。

 

先程言ったように、言葉とは視覚的イメージに名前をつけて共通認識にするものである性質上、視覚的イメージを作り出せないものを表現することは苦手なのです。

 

よく、人間関係で悩むという声を耳にしますが、これは、言葉の特性によるものだと考えられます。

 

人間関係をうまく築くことができない原因の一つとして、ミスコミュニケーションがあります。

 

言葉は視覚イメージを伝えることが得意なので、視覚イメージを共有できていないもの伝えようとする時にミスコミュニケーションが生じやすいです。

 

例えば、昔買った本を読み返してみた時、「昔よく読んでいたけど、こんなこと書かれていたかな?」と思ったことはないでしょうか?

 

同じ言葉で書かれているはずなのに、なぜなのでしょう?

 

これは、昔読んだ時と今とでは価値観が違うからです。

 

持っている価値観が変わることで、同じ文章でも捉え方が違ってくるのです。

 

同じ人間であっても、このようなことが起こるのですから、他人に対して認識の違いが起こっても不思議ではありません。

 

なので、他人に言葉を伝える時「自分と人とは価値観が違うから言葉の捉え方も違う」ということを認識する必要があるように思います。

 

ちなみに価値観とは、これまで歩んできた過去と、これから歩もうとする未来によって作られるものだと考えます。

 

なので、価値観は人それぞれ違って当たり前です。

 

このことを認識しながら、相手の仕草や表情をしっかり観察しながら伝えたいことが伝わっているか確認し、比喩や例え話を織り交ぜながら価値観のすり合わせを行い、認識(視覚イメージ)を共有できるように心がけるとミスコミュニケーションが少なくなると考えられます。

ウソをホントに変えてしまう変性意識

実際に、人の心を言葉で表す時、視覚的イメージが用いられています。

 

例えば、悲しいという言葉がありますが、悲しいという言葉を聞いて「涙を流している顔」をイメージしていると思います。

 

そして、うれしいという言葉を聞いて「口が緩んでいるうれしがっている顔」をイメージすると思います。

 

例えば、本当は「とても悲しい」のに「うれしい」と文字に書いて伝えるとしましよう。

 

相手に表情が見えない上、声も聞けない。

 

なので、相手に伝えられるのは文字だけ。

 

「うれしい」という言葉を受け取った相手には、その当人のうれしい表情をイメージすると思います。

 

もし、表情を見ながら「うれしい」とか、「うれしい」という声を聞くことができれば、嘘をついていることがわかるかもしれません。

 

ですが、文面だけで「うれしい」と書かれれば、「うれしい」という言葉(視覚的イメージ)だけが相手に伝わり、当人の本心は伝わることはないと思います。

 

人によっては、表情や声ですら偽ることのできる人だっているし、相手は相手で人の表情や声、仕草などから察しようとしない人もいる。

 

このようなことから、心ほど言葉で表すことが苦手なものはないと考えます。

 

人に対して嘘をつけるように、自分に対して嘘をつく。

 

本当は、自分自身の心に嘘をつくことはできませんが、自分の心に嘘をつく方法があります。

 

れが、変性意識(催眠)であり、その時に用いられるのが暗示をかけるために使われる言葉です。

 

実際には暗示(アファメーション)だけでは心に嘘をつくことは不可能ですが、催眠という変性意識状態に入る技法を使えば、それが可能になります。

 

催眠とは、変性意識の一つであり、顕在意識の働きが弱くなる状態のことです。

 

このことで、潜在意識に働きかけられやすくなり、自身で暗示をかけることができるようになります。

 

言葉とは、「視覚的イメージ」を言語化したものなので、暗示という言葉を使うことで潜在意識の視覚イメージにダイレクトに働きかけられます。

 

例えば、とても悲しくても「うれしい」と暗示をかけることで「うれしい視覚イメージ」を植え付けることで悲しい事実(感情)をうれしい感情に置き換えてしまうことができます。(恐ろしい話ですが)

 

そうすれば、本当は悲しかったはずなのに、心からうれしい顔や声を表現することができるようになってしまいます。

 

また、変性意識(催眠)に入り、暗示という言葉を用いることで、プラスのイメージを使い潜在能力を高めることができるため、能力開発に使われるケースが少なくありません。

 

ですが、変性意識によって身体感覚が消失されることで潜在能力を引き出しやすくなる反面、身体感覚が消失されることによって心や体の限界を超えても気が付かなくなるため、身体に負担がかかり、とても危険です。

 

このように言葉とは、とても便利な反面、時として厄介な面もあるので注意しなければなりません。

 

変性意識(催眠)を用いた暗示(アファメーション)を用いれば、言葉で思考の変容をはかることができるかもしれません。

 

ですが、思考を書き換えられたとしても感情自体を消し去ることは決してできません。

 

認知症になると、記憶を留めておくことが出来なくなり、不快なことが起こっても不快な出来事はすぐに忘れてしまいます。

 

すが、その時に感じた感情は忘れずに留まっています。

 

このように、暗示によって思考を書き換えられたとしても不快な感情を消し去ることはできません。

 

変性意識によって、不快な感情を覚えた時の身体感覚が消失されているだけです。

 

ですので、言葉だけで心の変容をはかることは、不可能だと考えます。

 

しかし、人と人とをつなぐことは言葉以外にできません。

 

なので、心の問題に言葉が多用されるのでしょう。

 

ですが、心とは身体をもって表されるものです。

 

葉も身体によって表されるものですが、表情であったり、声のトーンであったり、しぐさであったり、これらも人の心を反映しているのです。

 

ですので、もし、心の変容を図りたいと思うのであれば、言葉からだけではなく、身体からのアプローチがとても有効であります。

 

なぜならば、心とは体そのものだからです。

 

心のありようは、身体に正直に現れる。

 

なので、身体が変われば心も変わるのです。

 

は、身体のバランスを整える動作をお伝えする中で、心の変容が起こる様を垣間見てきました。

 

ですので、このことは強く実感しています。